社長のプロフィール

大島健作のプロフィール

大島健作はじめまして、大島健作と申します。

小学生の頃、友達から「けんさく」って武士の名前みたいだねと随分からかわれ、どうして親はもっと普通の名前を付けてくれなかったのだろうと悩んだものです。


今は、島根県の雲南市(松江市から南西方向、車で30分位)で、建材店の代表を務めています。私の両親が創業したのが昭和30年。2005年に正式に代表取締役として会社を引き継ぎました。
いわゆる『2代目』です。
昭和28年生まれですから、もう半世紀を過ごしてきた事になります。
(早いものですね・・。)


一般の皆さんからすると『建材店』といえば、どんなイメージがあるのでしょうか。

私の会社は、住宅関係の建材(ベニヤなどの建材品・キッチンなどの住設機器・建築金物・セメント・屋根材やゼロホルム建材・外壁材など)を、一般の皆様と工務店さん向けに販売するのが仕事です。


自社で扱う建材や情報を、自分の足で全国を飛び回って仕入れてくるので、最近から同業者や工務店さんからは『空飛ぶ建材店』と呼ばれています。おかげで、全国のいろいろな地域の工務店さんと親しくなりました。


さて、こんな私ですが、今に至るまでにはいろいろな紆余曲折がありました。私のプロフィールなど誰も興味はないと思うのですが、今の大島建材店を語るには避けては通れない道だと思い、恥ずかしながら振り返ってみることにします。


最後までお付き合い頂ければ幸いです。




【誕生〜少年期】


kensaku-1.jpg生まれは島根県大東町。姉と2人兄弟でしたが、田舎の良い環境のもとですくすくと育ちました。小さい時のことはあまり覚えていませんが、両親が忙しかったので、よそに預けられたみたいですね。

私は気が弱くてすぐ泣く弱虫だったようです。(今でも変わりませんが)

でも、なぜかクラスの級長などをしていたようです。


が、小学5年の時に足の病気をして2回手術をしたため1年遅れ、同級生が2組出来ました。松葉杖1本で直る病気なのに、その当時医学が進歩していなかったそうです。今でも少し後遺症が残っています。小学生の時のあだ名が 「おまけ」「おばけ」 変なあだ名ですね。


中学の時、何を思ったのか生徒会副会長に立候補しましたがあえなく落選。落ちた人ばかりで落選同盟を作りました。私は新聞部長に立候補して、壁新聞を作った思い出があります。この頃から人と違ったことをして目立ちたいという意識があったのでしょうか・・。(この辺りは今とあまり変わってませんね。)


大東高校のバレーボール部のメンバー中学、高校とバレーボールをしていましたが、下手なのになぜか主将でした。(写真は大東高校バレー部の時のもの。後ろ左から2番目が私です)

「竜馬がいく」を読んで坂本竜馬に心酔し、高知まで1人で行ったのは高校1年生の時でした。(思いついたらすぐに行動する点は今と一緒ですね)
 


冒頭にも申し上げましたが、私の店は大島金物店として昭和30年にスタートしました。私が2歳の時でした。最初は父と母で鍋などを売っていたのですが、工具、刃物、セメント、新建材と次々に商品の取扱を広げ、お得意さんを増やしていったみたいです。住宅ブームもあり、時代の流れにうまく乗ったのです。


しかし、当の私は親の店の仕事をする気は毛頭ありませんでした。
建材店のような商売人ではなく、「何か人の役に立ちたい、大きな社会福祉事業をしたい。」と思っていたのです。
その考えは高校の終わりになる頃まで変わりませんでした。


しかし、高校3年の夏休みに転機が訪れます。
大阪に嫁いでいる姉の家に遊びに行き、姉から勧められ偉い先生を訪問したのです。そして、自分の進路について相談したところ、父の仕事を継ぐことを勧められました。


「大きな歯車の中で生きるのもいいけど、せっかくお父さん、お母さんが築いた店があるじゃないか。世の中の片隅で自分のまわりを明るくする”一隅を照らす”生き方も素晴らしいんだよ。」

 
その時、私は何か頭をガツンと叩かれたような気がしました。その先生に出会ったことで、私は大島建材店の仕事をしようと決めました。私は今でもそうなのですが、人にとても影響されやすいのです。その時、その先生に陶酔し、生涯の師とも思ったのでしょう。


島根に帰り、両親にそのことを告げると大変喜んでくれました。その後、地元の大東高校を卒業して大阪の建材メーカーに3年間在籍、大島建材店の仕事を始めたのが昭和51年でした。



【青年期】

信州八方尾根にて健作24歳大阪の建材メーカーに在籍していた時に覚えたスキー、島根に帰ってからも夢中になり友達と大山へよく行きました。

写真は昭和52年の5月、信州の白馬へ春スキーに行った時のものです。その割にはうまくならず、最近になってコツをつかんだような腕前です。 

昭和61年までは、これと言って特別なことはありませんでした。

前半は仕事を覚えた時代、後半は何かを模索していた時だったようです。
 


昭和61年にユニットバスの説明会に行き、これからはユニットバスの時代になると思い、山陰ではいち早く戸建用ユニットバスに取組みました。今でこそ、ユニットバスは当たり前、でも当時は一般住宅には珍しかったのです。その頃から、何かにぶつかりたいと思っていたのでしょう。


昭和63年から平成4年頃は、リフォームにとても関心を持った時期です。なぜか、この頃から危機感があったのでしょうか、今のままではダメだという意識があったみたいですね。建材店を脱皮してリフォーム産業に参入しようなどと、本気で考えていました。東京のリフォームショップも訪問したのは平成3年のことでした。


床暖房工事をしている大島健作平成6年の秋に温水床暖房と出会い、第1号の施工をしたのが家内の妹の家、平成8年の4月でした。その後、温水床暖房に力を入れ始め、町外へも進出し順調に実績を増やしていきました。

ところが、床暖房自体の需要は増えていくのですが、同時に競合も増えたのです。将来、床暖房だけで飯も食えると思っていた私にとって、大きな計算違いでした。




【素晴らしい出会い】


そんなとき、新聞に載っていた『「いい家」が欲しい』という本の広告に目が留まりました。平成12年の3月のことでした。ソーラーサーキットとの出会いでした。


その本を読んで、私が今まで求めていたのはこれだったのではないかと強く感じたのです。そして、ソーラーサーキットの加盟店になりたいと強く願いました。


実は、平成8年から参入した温水床暖房だけでは、満ち足りないものがあり、何かもっと生き生きとした仕事にぶつかりたいと思っていたのです。


夢職人さんと私そして、とにかくその気になったらとても早いのです。大阪、兵庫と歩き、その年の12月には東京東村山の工務店夢職人さんを訪問しました。ここへ行ったのが、私の大きな転機でした。


社長の熊澤さんは、島根の建材店がわざわざ訪ねてきたことに、とても驚いておられたようです。

熊澤さんは「工法はひとつの手段、いい工法だからいい家ができるとは限らない」と言っておられました。


そして、「高気密高断熱を進めていくと必ずぶつかるもの。それは空気が閉じ込められる事による室内汚染。だからこそ建材には自然素材がとても大切になってくる。大島さんは建材店だから、いい素材を見つけて島根に持って帰るべきだ」と提言されたのです。


このときから、私の自然素材への挑戦が始まりました。
その後、私の念願が叶い無事ソーラーサーキットの加盟店になったのですが、翌年の平成13年から私の新しい取組がソーラーサーキットと同時に始まりました。


平成13年は、大島建材店にとって、激動の1年でした。


1月のソーラーサーキットの工務店募集から始まり、6月にニュージーランドの屋根材「コロナ」の直輸入を開始、7月には屋根材倉庫を建て、8月にはフランス風漆喰壁「モノプラルKS」導入の取組、10月には和紙塗り壁「レーベン」の代理店になったのです。


私が「これは良い!」と思った商品でも、新しいものには皆がすぐには採用してくれませんから、その良さを伝えるには大変な苦労があります。
商品の特徴を伝えるためのセミナー講習会等の開催も必要ですから、大きなエネルギーがいります。
でも、勇気を持って採用してくれる工務店さんもおられました。コロナもモノプラルもレーベン大きな魅力を持っていたのです。


平成14年に導入した太陽熱集熱外壁パネル「ソーラーウォール」は、いまだ芽が出ていません。でも、その時は売れると思ったのです。良い商品なので、今後も「ソーラーウォール」の特徴を発信して行きたいと思ってます。


アトピッコハウス後藤社長と横浜にて平成17年から本格的におつきあいが始まったアトピッコハウスさん、後藤社長夫妻のひたむきな想いに感動しました。究極の自然素材とも言える「ゼロホルム建材」と、それらを使用する「アレルギーフリー住宅」は、シックハウス問題が解決されない現代の家づくりにおいて、抜本的な解決策になるかもしれません。


夢職人さんが言われていたように、「高気密・高断熱住宅」には室内の環境がものすごく大事だからです。


これから、ユーザーの皆さんや工務店さんに対して、アトピッコハウスの情報も、もっと積極的に発信していくつもりです。
きっと将来の当社の大きな柱になると信じています。




【現在の大島建材店】


建材店という仕事は、

●これからユーザーに求められるであろう商品情報を早くキャッチし、
●その商品のメリットデメリットの両方を、ユーザーの皆さんにきちんとお伝えする『情報発信局』であるべき

だと思っています。


コロナを持つ大島健作もちろん売れるのも必要ですが、常に「これってユーザーにとって本当にいい物かな?」ということを真っ先に考えるようにしています。

何でも「良い!」と思ったら、実行する単細胞な私ですが、これからも、真にユーザーにとっていいと思うものがあったら迷わず取り入れていく。
この姿勢を大事にしながら、可能な限り全国を飛び回りたいと思っています。




【現在の大島健作】

(平成17年9月に書いたものです。)


大島健作ファミリー今年の3月長男と次男が社会に巣立ちました。振り返ってみると、親として彼らに何か教えたものがあるかなと思っても、はっきりと浮かびません。ただ、頑張れと願うだけです。

下の双子は小5年、優しい子になって欲しいですね。

家内とは喧嘩もたくさんしましたが、最近になって、やっと仲良くなれたみたいですね。一緒に頑張りたいものです。
 


最後までお付き合い頂いて有難うございました。 

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(有)大島建材店 代表取締役 大島健作